生活の批評誌

「生活の批評」を集める、大阪を拠点とする雑誌です。

no.4制作開始します

 

クローゼットの中にあまりにも冬服がないことに気づいたとき、去年のちょうど今頃ひとりで無職だったことを思いだした。その当時私は、金がないから新しい服が買えないというのに、鬱が治るような気がしてひたすら物を捨てていた。買わずに捨てる。とにかく捨てる。いらないものがなくなって、すっきりクリーンに洗練されたら、このどん詰まりもちょっとは晴れるのではないか。なんて期待に満ちた日々の断捨離を息抜きに、生活の批評誌のno.3「ひとりで無職」号のために、各方面に暑苦しくしつこい原稿依頼のメールを送っていた。

 

だいぶ前、生活の批評誌の最新号を作ったよと報告した大学時代の友達に「なんでかっしー(彼女は私をこう呼ぶ)はそんなにいつまでも雑誌が作れるの」と言われた。それを受けて私は「雑誌を作っていないと生きた心地がしないんだよねえ」と答えた。あっはっはと2人で力なく笑ってその話題はなんとなく流れたのだが、自分の発言ながら、あれ、どういう意味だったんだろう。

 

確かに私は、雑誌作りしか、空いた時間の過ごし方を知らない。いや、それは言いすぎか。少なくとも、時間の空白に「雑誌作り」をねじこむことになんの躊躇もない。”雑誌を作る”という行為に込めた確固たる思想のようなものは正直あまりなくて(「生活の批評誌」というコンセプトにはあるよ)、気づけば作っている……と言っても大げさではない気がする。「早く買い替えなよその服」と言われる回数がおそらく関西圏でトップクラスであろうほど身の回りの物事にかける金銭をケチる傾向にある自分が、印刷費ともなればまあまあの大金を投げ出せてしまう。これは冷静に考えれば奇妙ですらある。

 

そういえば、実際のところ、幼いころから雑誌作りは私のお気に入りの一人遊びだった。小学校一年生のとき、我が家の名編集長気取りだった私は、白い画用紙を3枚並べ、特集、コーナー、漫画、インタビューなど、ひたすらに企画内容を書き込み、最後にホッチキスで2点止めして、「出版」していた。家族に原稿依頼したり、自分も書いたり。まるで世界中に読者が待っているかのような気負い方で、毎号真剣にコンセプトを決めていた。そういうたぐいのものを、複数タイトル、かなりの数作っていた(実家に全部ファイリングしてある)。そのあとは大学でフリーペーパー制作団体にのめりこんだり、自主同人誌出したり、と、なんだかんだ、0歳~5歳までと、中学~高校の6年間を除いたすべての時期に、何らかの形で雑誌めいたものを作ってきた。それはそれは、なんの疑いもなく。まるで私が生きていくうえで必要な、極めて自然な営みです、といった具合に。だんだんと分かってきたのだが、ついつい雑誌を作ってしまう人、というような人がこの世の中には確実に一定数いて、私もおそらくそうなのだろう。しかしこの事実と、「雑誌を作っていないと生きた心地がしないんだよねえ」という答えとの間には、まだなにか飛躍がある。

 

ある友人に、「あなたとどこか遠くに旅行に行きたい」言われたとき、この人はなんとすごいことをいうのだろう、と驚嘆した。単に誘いやすい適当な相手だっただけなのかもしれないが、その一言に、少なくとも彼女が私を信頼しているということ、安心感を持っているということ、そして、「あんたと旅行したらお互い面白そうだと思うんだよね、違う?」みたいな、積極的な私への評価がさしはさまれている気がした。もともと彼女は「この人ともっと仲良くしたい」と思えば、それを躊躇なく相手に伝え、行動することができる人だった。それに比べて、私は非常に彼女に対してどこか受動的で、誘われるままに応じるものの、自分からなにか提案をし、誘うことはなかった。2人で過ごした強烈な時間の数々は全て彼女の手で導かれたものだった。私はなんとなくずっと、そのことを後ろめたいと感じていた。

思い返せば、そんな関係ばかりだ。私が相手に踏み込むか躊躇していたり、相手のことを考える間もなく自分に精一杯になっているときに、私は相手に、ぐっと踏み込んでもらっていた。私が今でも救われることの多い関係性の多くは、相手に手取り足取り形作ってもらったものなような気がする。

 

思い出すのが、ちょうどこの前に読んだ『図書新聞』(2019年12月21日号)短期連載「詩と批評 ポエジーへの応答」イベントレポート③での、詩人の杉本真維子の発言。

 

信じられないようなことだが、私は最近まで、他者と接触することはどちらかと言えば「悪」なのだと思っていた。だから、私に連絡をくれる人は、世の中のそんな奇妙な掟のようなものに抗い、自力で立とうとしているひとなのだ、と思っていた。それくらい優れたパトスを持った、覚醒したひとなのだと。そこまでして言葉を届けてくれるひとに、自分は何を返せばいいのか、といつも悩んでいた。

 

彼女が使う「悪」という言葉を私はどこまで理解できているかわからないけれど、接触することに含まれる、「なにかやってはいけないことをしている」という感覚は、私の中にも、ずっと、うっすらと、ある。(これは「他者と触れ合うことは傷が伴う」という言葉のレベルとは多分違う、もう少し根底にあるものだと思う)。そして、それができてしまう人に対する畏れに似た尊敬を同じように、感じている。おそらく私は、雑誌を作らずにどうやって人と関わればいいのかあまりよくわかっていない。”あなたのことをこういう風に私はとらえているけどどうだろう?”というようなかかわり方を、あの彼女のように日常の会話の中でさりげなく、できるような人では、少なくとも今はない。その瞬間はなにも思わなくても、あとから、なぜああいう言葉でごまかしたのか、なぜ私はあの時踏み込まなかったのかと、罪悪感と後悔に苛まれる。多分小さいころからずっと、そこはかとないコミュニケーション不全の感覚がずっと心のどこかにあって、その感覚は、普段の日常では抑え込むことができるのだけど、時々ぐっと、とても率直に「このままで死ぬのは避けたい」と思う。雑誌を作ることで、「私はあなたに興味を持っている」ということを、目の前を過ぎ去りゆく私が出会う人に対して言いたくて、すれ違った人がいる方向にダイナミックに逆走して、もう一度その人の肩をつかんで出会いなおしたくて、作っている。

 

「雑誌を作っていないと生きた心地がしない」というのは、おそらく人と接触することを「やってはいけないこと」と感じている私がせめて自分以外の誰かと主体的にかかわり続けるための手段なのだろう。そんなんするくらいなら目の前の数々の不義理をなんとかしろよと自分の中から声が聞こえてきてごもっともですと悲しくなってくるが、せめてそのことに自覚的になって、やらずにはおれないことをやっていきたい。

 

生活の批評誌no.4を、来年5月の東京文学フリマに出せるように。仕事を辞めないぎりぎりのラインで、制作を開始します。

 

2019年12月 編集長