生活の批評誌

「生活の批評」を集める、大阪を拠点とする雑誌です。

生活の批評誌とは何ですか

生活の批評誌とは何ですか、ということについて、ここでまとめようと思います。

(いよいよホームページ向きになってきましたが、まだブログで頑張るぞ。)

 

-----------------------生活の批評誌とは

2017 年 9 月創刊の批評同人誌。

「生活」と「批評」という言葉のイメージの離れを問題意識に置く。

日々の営みを内省のみではない形で描く、批評という言葉ではなにか形容し足りない、一番ここがちょうどいいという場所「生活の批評」を作ることを目的とする。

批評、詩、写真や漫画、エッセイ、小説などジャンルに差別や区別なく、今、必要な作品を掲載する。

 

-----------------------第一号巻頭文

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 『生活の批評誌』とは、「生活」と「批評」という二つの言葉を隣り合わせてみることから始める、批評同人誌です。
 筆者は、批評が好きです。批評というより、批評という概念にひどく執着してきました。でもなんで好きなのか、なんでこんなに批評が気になるのか、よくわからない。それでも、濃淡はあれど、批評ってものに地道に向き合ってきて、だんだん気づいてきたことがあります。「批評」って言葉は、なにをどう頑張っても「アカデミックでなんだか難しいこと」に近くて、どうしても、「崇高」なんです。「批評の神様」とはよく言いますが、なんだかこの世界を俯瞰して、自己の論理で一つ手の内に収めるような強大さがある。
 そして、それは「生活」の対極にある。「誰もが持っている身近なもの」、淡々と続く無秩序な日常は、ただただ「卑俗」です。「批評」と「生活」、「崇高」と「卑俗」。そんな一見つまらない二項対立が、世間を見回せば随所に見つかる。もちろん、私自身の中にも。
 しかしながら、対立する「生活」と「批評」の二つを"近づけよう"とする営みは、実は何十年も前から幾人もの先人によって、起こっては消え起こっては消えしてきたように思います。今流行りの哲学カフェなんかは知識競争になりがちなアカデミックな哲学議論へのアンチテーゼだったりするし、60年代から盛んに起こり続けている(!)「農村回帰」の姿勢は都市一極集中への批判を体現したものだし、民衆が使う雑器を見出した「民藝」という造語も貴族の嗜みとしてのいわゆる高等美術へのアンチテーゼだったりする。今でも「生活の中の○○」は恰好のスローガンだし、「生活に根差し」ているだけで、無条件に好印象だったりする。
 だけど「批評」と「生活」は、時に互いを翻弄しあう。哲学カフェはしゃべりたくてもしゃべれない誰かを放置してきたし、農村回帰は地方コミュニティの負の面をピックアップする機会にしてきた。アカデミーの世界に生きる人にとっては、「生活」に根差せないことは「わかりにくい」という点で罪となり、どんどん“誰にでもわかりやすい表現”しか“表現”として認められなくなっていく。
 「生活」と「批評」は互いが互いのジレンマとなる歴史を背負ってきたのかもしれません。
 本誌は、どちらか一つを大きく強く標榜することもしないし、融合しようなんて暴力をふるうこともしません。
 だけど、せめて、隣り合うことくらいは。批評と生活の新しい関係、なんてあるのかないのか、実はまだ、よくわかりません。でもまずは「生活の批評誌」と言ってみようと思います。雑誌を作ってみようと思います。どうぞお楽しみください。

          2017年9月18日 『生活の批評誌』編集部   樫田 那美紀

 

-----------------------第2号発行宣言文

 

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 六年間に及ぶ大学生活の終わりを遠目に見た時、「あまりにも場所がなさすぎる」と思った。場所とは、書いたものを発表する場所だ。手探りでブログやホームページを作ってみても、どこか愛情が込められない。書く文章にも、サイト整備にもいまいち真剣になれない。
思えば読む時もそうだ。私はネットで出会う言葉を、どれだけ真剣に読んでいるだろうか。曖昧に流し読みするばかりで、書き手を想い文章を温かく睨むことはほぼない。私がブログに文章を書く時想定する読者とは、そんな不誠実な読者——“私”である。そりゃ文章も、やってる私もつまんないわけだ。
 懐古主義の怠け者、といえばそれまでだが、それでもこの世界には、“書くことへの真剣さ”を必死でつかもうとしている人が一定数いる。自分の言葉が、出来る限り確かな実感をもって、自分以外の誰かの手に渡っていると思いたい。私たちは意外と、そんな“いつか”のために、出来るだけ本気を出さないように、真剣さを無駄遣いしないように、注意深く余力を作りながら日々物を書いてはいないか。彼等が、私が、今最も求めているのは、自分自身が真剣に書ける「場所」である。
 だから私は、SNS の広大な寛容さを横目にみながら、縛りと囲いに満ちた「雑誌」という場所を作る。私はそこを、“書くことへの真剣さ”を肯定する場所にする。形態は「批評誌」とする。誰かの言説、存在、行為が想定され書かれるものである限り、批評にはかならず抜き差しならぬ「相手」があるからだ。“書くことへの真剣さ”は、そんな「相手」に対する些細な緊張関係に基づいている。論争必死。どれだけ世の中の秩序をかく乱する殺伐とした内容でも、ラブレターはラブレターなのだから。
 だから私はこの雑誌を私が生きている限り—その頻度と形態は問わないが—作り続けることを約束する。だから『生活の批評誌』と題した。今は「場所」を作ることに必死になっているけれど、私たちは日々の生活の中で、誰かに向けて、本当はもっともっと真剣に書いていいはずなんだ。一年後のもしかしたらバテているかもしれない自分のような誰かにそうささやくために、第二号の制作に着手する。

          2017 年 11 月 9 日 文責:『生活の批評誌』編集部  樫田那美紀